メッセージ
記録は少なく、当時の記憶が失われつつある中で、「もの言わぬ語り部」として米軍ハウスが語る、私たちのまちに確かにあった歴史を掘り起こそうと活動を続けています。
歴史
接収施設としては、席田飛行場(のちの板付飛行場、現在の福岡空港)をはじめ、雁ノ巣飛行場(のちのキャンプ・ハカタなど)、春日原地区にあった陸軍小倉造兵厰春日製造所などがありました。
1945年12月1日までに福岡県内に連合軍約2万8000人が進駐し、春日原には2500人がいたとされる。このほか九州飛行機雑餉隈工場(現在の陸上自衛隊第四師団)、九州兵器(現在の渡辺鉄工所)などにも米兵が駐屯していました。
春日原住宅地区の中には、階級ごとに分かれたクラブ、ボウリング場、スケート場、野球場、体育館、プールなどがあり、教会、劇場(映画館)、売店、食堂、クリーニング、FEN(極東放送)のスタジオ、さらに「PX」と呼ばれた基地内のスーパーマーケットは、米国直送の肉や大型家電も並んでいました。
基地外の米軍ハウスは「オフベースハウス」と呼ばれ、基地から半径5マイル(約8㎞)に所在することを第一前提とされた。米軍ハウスの建設は土地所有者が行い、家主でつくる組合が6つありました。
完成後、米軍基地内のオフベースハウス課が規格検査し入居の契約をしたようです。家賃は大半が「2ベッド=平均50ドル程度」(1万8千円)でした。
ギャラリー
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ベース時代の風景
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当時の米軍ハウス
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米軍ハウスCG
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基地内外の人々
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現在の米軍ハウス
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春日・大野城地区の板付基地住宅エリア(1960年代)
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東ゲート前の白木原駅前通り(1960年代)
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東ゲート前の白木原駅前通り(1960年代)
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西鉄春日原駅(1960年代)
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西鉄春日原駅前通り(1960年代)
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千歳町の北ゲート前通り(1960年代)
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西鉄春日原駅前通り(1960年代)
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西鉄春日原駅前通り(1960年代)
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西鉄春日原駅前通り(1960年代)
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ガレージ付きハウス(1960年代)
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比較的大型のハウス(1960年代)
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建築後間もないハウス(1960年代前後)
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リビングルームの様子(1960年代)
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リビングルームの様子(1960年代)
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基地周辺の日本人住宅街に点在するハウス群(1960年代)
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一般的に数軒のユニットで点在(1960年代)
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ハウス地区に必ず設置されていた給湯用石油タンク(1960年代)
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庭と玄関先
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裏庭
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ハウスコード"IAB 844"
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戦闘機の燃料タンクを使ったボイラータンク
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再現CG 360°view
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米軍人の子供たちには家族同然の日本人のお手伝いさん(1960年代前後)
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ハロウィン仮装を手伝うお手伝いさん(1960年代前後)
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子供達と基地内を散歩するお手伝いさん(1960年代前後)
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太宰府の茶店で働く女性と米軍人少女(1960年代)
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日本の運動会にアトラクションで招かれた基地内高校のチアリーダーたち(1960年代)
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米軍人家族用の水道給水車に集まる子供達(1960年代)
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ハウスのリビングルームにて(1960年代)
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ハウスのキッチンで近所の日本人の子供たちと・・・(1960年代)
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大野城市に残るハウス(2019年)
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大野城市に残るハウス(2019年)
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当時のままの給水塔(2019年)
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ハウスの特徴的な出窓(2020年)
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出窓のある室内(2020年)
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出窓のある室内(2020年)
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当時のままの浴室ドア(2020年)